閉塞感

こんにちは。ちろるです。

 

約二週間ぶりの執筆ですね。一時期は毎日執筆していたので、どうも個人の継続性のなさがにじみ出るというか、難しいことに。

 

数日前の台風には驚かされました。私は北海道の地で生まれ育った身なので、傘が三回もひっくり返るという経験はしたことありませんでしたから。

その後すっかり重たくなってしまった衣服を洗濯機に投げ捨て、激しい雨音に耳を傾けていましたが、どうして雨の日というのは閉塞感を感じるのでしょうか。密室に閉じ込められたかのような息苦しい感じ。現代病かもしれませんが。

 

外に満足に出られない日というのは、基本的に本を読んだりテレビを見たり、絵を描いたりするものですが、ここ最近はそろそろゲーム機が欲しいと思うようになってきました。

個人的にはRPG、ファンタジー系よりもクリエイティブ、謎解き系のゲームを好んでいますが、実際に皆さんはどういったジャンルのゲームを好んでいるのでしょうか。最近のはやりものを把握していない身ですのでよく知りません。

 

二週間の猶予があったわりに中身のない記事ですね。逆に二週間何もなかったからこその出来栄えなのでしょうか。

 

それでは。

 

安楽椅子の知識人?

こんにちは。ちろるです。

 

多忙につき久しぶりの執筆となりますが、こうして日常を振り返る機会というものは手放すには惜しく、こうして執筆をつづけています。

 

最近は図書館で本を借り、読み漁るのが日課になりつつあります。そこで夏目漱石の『三四郎』に現在読みふけっておりますが、冒頭で三四郎が平気で弁当の空箱を電車の外に投げ捨てるシーンには驚きました。
当時の常識、感性といいますか。現在とこの時代のギャップというものを知るうえで文豪の書物というのは大変参考になりますね。

他にも樋口一葉の『たけくらべ』を読破致しましたが、男女の艶めいた駆け引きを連想させる遊里の街を舞台として、十代の少年少女の純粋ないじらしさを表現するという意外性が素敵でした。彼女が死去する約一年ほど前に書かれた作品だったと知ると、さらに物語の枠では収まらない魅力を感じますね。

 

日々の授業やレポートを忘れて、激動の時代に執筆された本を開くのは、どこか自分が知識人になったようで得意になってしまいます。

そんな自分に嫌気がささないのも、図々しいでしょうか。

 

雨と充実と娯楽

こんにちは。ちろるです。

 

充実した休日を送ろうとすればするほど、窮屈に感じてのびのびとした生活ができなくなるものですね。難しいものです。

 

私は都内に出向く機会がありまして、強い日差しの中行きかう人々に何かしらの感慨を覚えました。なんといえばいいか、充実と娯楽に精を出している生き物というのは不思議なものと言いますか。そんな暑さの中、避暑地のように開かれたカフェでの冷たいスイーツには癒されました。糖分とは絶品です。

 

そんな長い休日の締めくくりは雨。外出が困難であると落ち込む人も、逆に外出しない口実ができたと安堵するひとも、雨音をBGMにゲームをしたり、読書をしたり、やり残した課題をするのでしょう。そんなしっとりとした休日は充実でないと言えるでしょうか。心が一瞬でも揺れ動けば、それは充実した日だったと満足して一日を終える資格があるというものです。

ぽつりぽつりと雨が降る中、買い出しで目を奪われて買ったプリンは、夜に味わおうと考えております。いけないことをしているようでワクワクする半面、体重計の出番は先延ばしにされるだろうという申し訳なさもありますが、それも心を揺さぶるもの。

 

本日は雨。カプチーノでも啜りながらベットの上で本を読む一日です。

心配性です

こんにちは。ちろるです。

 

親元から離れてそろそろ一か月となりますが、そんな巣立ちの日々の中で思ったことがあります。

今の私が一番私らしい気がする。

急にアイデンティティの話か。と記事を書いている今も考えましたが書きたいので続けます。親というのは子供の価値観に多大な影響を及ぼす存在で、それに子は従ったり反抗したりするのですが、私はどちらかと言えば仲のいい親子関係であると感じております。過干渉であると思ったこともちらほら、まあ心配してくれるのはありがたい。

これをああしないと変だって言われるかな、多分これなんか言われるな、こんな格好してたらだめだよね、こんな時間まで起きてたら。一人になってそんな思考が一気に取り除かれました。どこにも目がない。私はこうしたいからそうする、私は私の価値観でものを決める。親の価値観で、考えなくてもいい。

 

無論、親の価値観が私を圧迫する枷だったとは言いません。私の成長の上で必要なことでした。だからこそ私の価値観で生きることの重要さを知ったと言います。奇妙なことに、私はつい最近やっと「私は自然にこう考えるんだ」と自覚した次第であります。

親とは定期的に連絡を取っていますが、ホームシックになっていない旨を伝えると、ほっと胸をなでおろしてくれました。つくづく心配をかけていると言いますか。本当に心配性なものですね。

 

私はホームシックというよりペットシックですが。電話越しのピヨピヨという愛しいセキセイインコの鳴き声が聞こえてくるたび、切なくなります。

 

それでは。

神さまはすごい

こんにちは。ちろるです。

 

本日は博物館に行ってまいりました。博物館の雰囲気は現代、この世、現世と隔絶されたようで私は好んでおります。別世界に行った気というのはどうしてこうも心地の良いものなのでしょうか。そしてなぜか、博物館に飾られた人間味のある絵画に親近感を覚え安心するのでしょう。

 

このごろ私はメソポタミア文明がマイブームで、この時代の宗教と政治の入り混じった神秘的な芸術に心惹かれます。私は当初メソポタミアといえば、あの現代のプリクラでもそうはならないと言うほど目力の強さが特徴的なシュメール人しか存じていませんでしたが、調べれば調べるほどその奥底にある文化に興奮を覚えます。

王は神の代行者であり、同等のものであり、信仰する者として様々な形で表現されていますが、私は日本に伝来した仏教といい、本当に上に立つものは神を信じていたのかと疑問に思います。なぜなら個人的見解としては、自分の権力維持に神を利用しているようにも受け取れるからです。織田信長のような絶対的存在を恐れない姿勢は例外ですが。本当に彼らは純真な心からの信仰をしていたのでしょうか。

 

そんなことを述べましたが、結局一番の力は人の信仰心だと思いますが。そうでなきゃキリシタンに将軍が苦心するはずありませんから。

それでは。

虫さん

こんにちは。ちろるです。

 

知らぬは一生の恥とは言うが、知らないことは一種の無敵状態であると思うのは私だけでしょうか。

 

私は田舎住まいであったにもかかわらず、昆虫が大の苦手です。容姿はもちろんのこと、特に昆虫の発する音が不快な感情を呼び起こします。

そこで疑問に思いました。私は生まれながらにして昆虫が苦手であったのかと。そうではありません。私は両親、先生、友人からの「虫は気味が悪い」という情報を刷り込まれ、現在の昆虫嫌いに発展しているのです。知らず知らずの刷り込みが、私の趣向を形成したのです。

つまり本日、私が害虫駆除用、防虫用の製品を購入したのは、私の人生の中で蓄えた偏った情報からの行動なのです。2000円余りの出費の根本的な原因は、幼き頃からのイデオロギーだったのでした。

昆虫の不愉快さについて知らなければ、私は昆虫への恐怖抜きの人生を歩んでいたでしょう。それによる昆虫の弊害があったとしても、それは当然のことであると受け止めたでしょう。知ってしまったからこそ、天敵を作ったのです。

知れば恐れは本当になくなるのでしょうか。私が世界の昆虫のすべてを知ればこの恐怖は収まるのでしょうか。私たちは恐れを克服するために、日々学習が必要なのでしょうか。

 

それでも私は昆虫が嫌いなので調べるなんてまっぴらごめんですが。苦手な生き物の産卵状態なんて知りたくないので。

知らないからフラッシュバックすることがない。知らないとは最強ですね。

with音楽

こんにちは。ちろるです。

 

多忙ゆえに記事を更新するのは久方ぶりな気がします。それほど充実した毎日を送っているということでしょうか。

閑話休題。先日、初めて三味線というものに触れてみました。そこまで和楽器に知識を持っていませんでしたが、それでも音というものはその障壁を無いものにしてしまうそうです。奏でるうえで、べっ甲を持つ手の小指が非常に痛みを伴い、演奏者の方がこの痛みを乗り越え極めてるというすごさに脱帽します。

私は中学時代にクラリネット奏者として吹奏楽部で活動していたのですが、経験者の方なら同感されると思います。親指が酷使されるのです。クラリネットの重さを親指で受け止めるので負荷がかかります。親指の関節にタコができた思い出でした。

 

演奏から遠ざかった毎日を送っていましたが、時々奏でたくなるのは人間の本能的な衝動なのかもしれません。それに、そうでなくても音楽は日々にどこか彩りを与えてくれるものなので、本当に不思議な魔力ですね。

 

それでは。